~掃除道に生きる~田中義人ブログ

  • 過去のピンチから学んだこと

    2018年02月01日

    私は50年間、経営の第一線に立ってきましたが、今回は、経営を継続してこれた大切なことを書きます。

    1.顧客一社依存は経営の危機を招きやすい

    -東海神栄電子工業の事例-

    東海神栄電子工業は、1969年に神栄工業の100%下請けとして創業しました。当時の神栄工業は、東京に本社を置き、東北の原ノ町、いわき市に大きな工場を有し、上場を視野に急拡大をしていました。その一環で、神栄工業の直轄として東海神栄は生まれました。

    その為に経営の自由度はなく、100%親会社の管理下にありました。しかしながら、その後、オイルショック、ドルショックに遭遇して仕事が急激になくなり、経営のピンチを迎えて親会社に窮状を訴えたところ、「ないものはない。人員整理をして急場をしのいでほしい。」と、一社依存の下請けの悲哀を味わい、その悔しさに涙しました。

    しかし、そのことがあったからこそ、親会社から独立する決意をし、苦闘の末、5年後に完全に独立して今日までくることができました。

    その後、神栄工業は新日鉄に買収されましたが、赤字経営が続いて企業売却となり消滅しました。もし、あのまま仕事があって下請を続けていたら、今の東海神栄はありませんでした。正に、「ピンチはチャンス」となりました。

    -中山理研の事例-

    中山理研は、リコーが恵那にリコー時計を設立した1973年に、腕時計の文字盤印刷の協力会社として創業されました。当時、腕時計は機械式時計が主流で、スイスと日本がダントツの技術力を有していました。日本においては、セイコー、シチズン、オリエント、リコーと限られた会社に限定され、安定産業と言われていました。

    その中で、中山理研は、リコー時計の文字盤印刷を一手に引き受け、30名程の社員を有する会社となり、リコー時計からも信頼を得て、共存共栄の経営を続けていました。

    しかしながら、20年程前に、カシオが電子時計に進出することとなり、国内の時計部品メーカーが、カシオへの協力を拒否したことから、カシオは香港で総ての部品調達をして電子時計を作り上げ、一気に国際市場に打って出て、今日の市場を取ってしまいました。

    その後、リコー時計も電子時計の分野に進出しましたが、時すでに遅く、時計市場からの撤退を余儀なくされ、経営破綻に追い込められました。その後、親会社のリコーが救済に乗り出し、事務機部門の下請けとしての再起を計り、今日まできております。

    一方、リコー時計の地元協力会社の大半は、廃業、倒産へと追い込められ、中山理研もリコー時計から完全撤退することとなり、その後、幾多の仕事をしながら、現在まできています。

    教訓・・・一社依存のウエイトが高いと経営の危機を招きやすいので、最高でも20%以上にしないこと。どれだけ優秀な客先でも分散させることです。


    2.グループの強さ
    (ピンチをチャンスに変えられたこと)

    ナカヤマ・グループの強さは、異業種の仕事をしている事です。これまで幾多の経営危機に遭遇してきましたが、その都度、仕事がなくなった事業所から他の事業所へ異動をすることで、一人たりともリストラをすることなく今日までくることができました。

    その底辺には、グループ全員で取り組んでいる早朝掃除、秀観塾が、グループ共通の意識として育成されていることにあり、相互に助け合える土壌があることが強みとなっています。

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